ENTiP 弁理士・行政書士の山中と申します。

この「TOPICS」では、士業ならではの有益な情報をお伝えする…

…ことにこだわらず、公私混同上等のコラムも時々投稿させていただいております。

40年以上、横浜に本拠地を置くプロ野球チームを応援している身として、そちらにちなんだ投稿をしていこうと、今シーズン初めに第1回を投稿したのですが、

【不定期ベイスターズ・コラム】勇者の遺伝子(DeNA)は、星や鯨にあり〜その1「背番号4へのオールドファンの想い」
https://entip.jp/topics/204/

なんと、シーズン中は全く書くことができませんでした(汗)。仕事の忙しさにかまけて…なのですが、限られた時間で野球観戦は結構していた方かと思います。シーズン公式戦が8試合(うち交流戦3試合=北海道・千葉・埼玉)、ファーム2試合、そして今年はポストシーズン(CS1試合、日本シリーズ1試合)も楽しんだ結果、最終的には日本一となり、歓喜の一年となりました。

来シーズンはもっと投稿しよう!と思いつつ、まずは第2回目がないことには先もないということで、オフシーズンならではのテーマで行ってみようと思います。

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ベイスターズが日本シリーズを制してから、初めての投稿になる。が、冒頭は「かつての」ベイスターズの選手のニュースから始めたい。

(梶谷選手、お疲れ様でした)

ベイスターズが「DeNA」となり、チームが少しずつ強くなる過程とシンクロするように、自身も成長を遂げていった、梶谷隆幸選手(いや、梶谷選手の成長こそが、チームを牽引したというべきか)。多くのファンから強い思い入れを託されていた存在だっただけに、2021年の読売へのFA移籍は大変惜しまれたが、この引退記者会見にサプライズ出席した同僚選手の数に嬉しくなった。いかに彼が愛されていたか、リスペクトされていたかを物語るシーンであり、FA移籍というチャレンジが、彼のキャリアを豊かにしたことを確信した。

そんな彼の引退記者会見で、今後の予定を聞かれた際に、「プロ野球界からしばらく離れる」趣旨の発言をしている。彼ほどのキャリアがあれば、そして3軍制をとっている読売であれば、コーチへのオファーはなかったのか?当然ながら、あったようなのである。なぜ断ったのか、そのオファーへの有難さを伝えながらも、ベイスターズ同期の高森勇旗氏のコラム(で、このように語っていた。

「ありがたいお話もいただいた。でも、俺にとってコーチって、万永さんなんよ。今、俺は当時の万永さんの年齢になった。来年から18歳のルーキー相手に、万永さんが俺たちに向き合ってくれたあの熱量で、あれだけの多くの時間向き合えるかと問われたら、とてもできない。その足りない熱は、どこかで選手に見抜かれる。それは、人生を賭けて勝負しようとしている選手に、失礼。だから、俺はコーチを受けられなかった」

NumberWeb「まさか、梶谷があんな選手になるなんてな」元コーチも驚いた18年のプロ生活…引退表明のDeNA→巨人・梶谷隆幸(36歳) 入団同期が見た“激動の日々”  https://number.bunshun.jp/articles/-/863581?page=3

「万永さん」とは、 万永貴司氏のことだ。DeNAになる前のベイスターズに93年ドラフトで入団後、完全なレギュラーではなかったが、守備や走塁で欠かせない戦力となる。98年の優勝の際は、まれにレギュラー選手がケガなどで欠場した際には、スタメンで打撃でも活躍するなど、いぶし銀な選手であった。

ベイスターズ一筋で引退した万永氏が、梶谷選手が入団時のコーチだった。高卒で、決して器用とはいえない選手だったという彼に、今では考えられないような量の練習を課したという。しかし、梶谷選手は、それを「やらされた」のではなく、それだけの量と時間を「(自分に)費やしてくださった」と感謝しているのである。

実は、そんな万永氏が新人選手の頃に、練習を見に行ったことがある。自分はもう社会人になっていたが、いまひとつ身が入らず、たまの休日も無為に過ごしていたのだろう。実家から遠くない、横須賀の練習場にクルマを走らせた。

そこでは、同期の波留敏夫選手(当時)と、互いに汚い言葉を大声でぶつけて鼓舞しながら、何本もダッシュを繰り返していた。それこそ、当時のコーチ(岩井さん?青山さん?それとも…)に見守られながら、鍛錬を積んでいたのだろう。

そんな波留氏は引退後、長く指導者を続けているが(25年からオリックス2軍監督)、同様に万永氏も、現在(来季2025年)も、DeNAのコーチング・スタッフに名を連ねている(25年の肩書きは「野手コーディネーター」)。時代が変わり、かつてのような練習量を課すことは(怪我のリスクなどを考慮して)許されないのかもしれない。しかし、時代の変化にしたがいながらも、若い選手の可能性を信じ切る「熱量」が変わらないからこそ、続けられるのであろう。

「2025年シーズン コーチングスタッフ決定のお知らせ」(横浜DeNAベイスターズ 公式サイト)
https://sp.baystars.co.jp/news/2024/11/1109_01.php

ただ、DeNAはコーチの起用には先鋭的な球団だ。このスタッフには、万永氏のように(98年優勝時を中心に)かつて選手として活躍したコーチも少なくない一方、選手時代の成績にこだわらず、球団活用を推進する「データ」の分析・理解・利用に長けたコーチも多い。こうした存在を一軍の試合の采配に大きく寄与する責任者にも配置している。また、プロ野球選手の経験はないものの、スポーツ心理学の専門家である遠藤拓哉・メンタルスキルコーチもいる。このようなコーチングへの新しい取り組みが、「日本一」という結果に結実したことが、大変嬉しくもあるのだが、

育成段階にある若手選手、実績がありながらスランプに陥り調整にはげむ選手などが集うファームでは、やはりプロ野球選手として栄光も苦渋も味わって、そしてコーチとしても「熱量」をもって多くの選手に接してきたコーチの存在は、拠り所として大きいだろう。

そのような存在は、万永氏はもちろん、投手コーチであれば入来祐作氏などもそうだろうが、そうした「拠り所系」コーチの頂点に立つのが、田代富雄氏である。自分が野球を見始めた1981年、前身であるホエールズの4番であった。引退後のコーチ業(※読売や楽天も含む)では、時に厳しくも、おおらかに長い目で見守りながら、必要なタイミングで最小限のアドバイスをするタイプの指導者として、多くの名選手を送り出している。

 

(田代さんので貼れる動画が、こういうのしかなかった。)

しかし、面白いのは、「外国人選手」とのつながりだ。彼が一軍に初出場した76年、一軍コーチにいたのが、前年で現役を引退した元メジャー・リーガーのクリート・ボイヤー氏。それまで二軍にあまんじていた彼のポテンシャルを見抜き、企図されたトレード案も阻止して、彼を自身の後釜のサードとして鍛えたのだという。そんな田代氏を、現在コーチとして慕うのが、やはり元メジャー・リーガーで、4番を打つタイラー・オースティン選手だ。

https://x.com/ydb_yokohama/status/1773718001256218658

メジャー・リーガーから叩き込まれたプロ野球選手として持つべきプライド、そのプライドに敬意を払ったコーチングが、時代や世代、国籍を超えて受け入れられているのだと思うと、たとえ弱い期間が長いチームであっても、しっかりと繋がれている歴史があるのだと、このチームのファンであったことが嬉しくなる。

しかし、田代コーチももう70歳。生涯グランドに立ち続けてほしいが、後継者は必要だ。そんな中、うってつけの新コーチがやってきた。いや、戻ってきてくれた。村田修一氏である。

80年代、田代選手がいくらホームランを打っても、なかなかチームは勝てなかったのと同じように、00年代、村田選手が4番として、いくらホームランを打っても、チームは一向に勝てなかった。そんな状況でも、多くを語らず(、そのために誤解されながらも、)チームを支え続けた、いや常に折れそうなファンの心を支え続けてくれた「男・村田」である。そして、当時、打撃コーチや二軍監督、そして一軍監督代行として、村田氏がのびのびと成長するのをおおらかに見つめつつ、時には厳しく野球選手としてのプライドを叩き込んだのが、田代氏なのだ。

村田氏も、FAで移った読売での優勝経験や、現役最終年の独立リーグでの経験、そして読売・ロッテで積み重ねたコーチとしてのキャリアがある。しかし、そのコーチとしての理想としてあるのは、恩師・田代氏ではなかろうか。そんな田代イズム、コーチとしての熱量の後継者としては、最適な人材の復帰だと思う。

プロ野球(コーチ)OBたちも、現代の選手への指導は難しいと聞く。練習「量」への疑問(※野球以外のスポーツで世界的に活躍するアスリートでも、量より質を唱える選手は増えてますよね)、裏付けとなるデータが示されないと練習方法にも納得されない気質になったり、その方法論についても、コーチ以外からも、新しい情報や解釈がいくらでも目に・耳に入ってくる情報時代だ。

しかし、DeNAという球団のコーチング・スタッフは、新しい時代の理想のコーチングを模索し、変化を恐れず挑戦する方針・人材という「横糸」と、積み重なる経験と変わらない熱量がリレーされていくという歴史・人材という「縦糸」によって織られている(そこにいつか、熱量をためた梶谷氏がジョインしてくれたら最高だな)。年々充実していく練習環境と併せ、次回の歓喜も「◯◯年ぶり!」なんてことはもうない、きっと極めて近い未来だと、筆者が信じる理由である。