ENTiP 弁理士・行政書士の山中と申します。
この「TOPICS」では、士業ならではの有益な情報をお伝えする…
…ことにこだわらず、公私混同上等のコラムも時々投稿させていただいております。
そして、新たなテーマのコラムとなりますが、
実は、40年以上、横浜に本拠地を置くプロ野球チームを応援しておりまして、そちらにちなんだ投稿の、第1回となります。
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昨年のドラフト1位で入団した、度会隆輝(わたらい りゅうき)選手は、背番号4を背負っている。これは、同じくプロ野球選手として、かつてヤクルトで活躍した父・博文氏が背負っていた番号と同じになることから、選ばれたものだろう。
たまたまその番号が空いていたのだから、彼は運を持っている、とも言えるが、実はこの球団では、その前身時代を含め、あまり活躍した選手がいない番号なのである。
自分がチーム(当時は横浜大洋ホエールズ)を応援し出した81年、すでにいぶし銀となっていた基満男(もとい みつお)という、背番号5の選手がいた。(ずっと後になって知ったエピソードなのだが、)基選手は、大洋の前は、福岡時代のライオンズの主力選手として、背番号4をつけていたので、大洋移籍時にも同じ番号を望んだのだが、「うちの球団では、あまり縁起がよくないから、やめておけ」と言われ、5番にしたというのである。
しかし、もともと大洋を応援し始めた理由が、(神奈川県出身だからということ以上に)「他にファンがクラスにいなかった」という、ひねくれたものである自分にとっては、特に「背番号4」の選手のブレイクを期待することになった。
記憶に残る選手がいないわけではない。一時期はレギュラーも張った左の好打者・横谷彰将選手(‘89〜’95)もいたし、唯一のホームランが、プロ野球通算2000本目の満塁本塁打という、北川利之選手(’03〜’10)も忘れがたいが、期待通りの成功を収めたとは言い難い。度会選手の前に4を背負った伊藤裕季也選手(’19〜’22途中)も、本格的なブレイク前に楽天へと移籍してしまった。
そんな中、はっきりと「背番号4の成功者」と言えるのは、球団が現在の”DeNA”ベイスターズとなった後、その黎明期を支えた、荒波翔選手(’11〜‘18)ぐらいではないか。リードオフマンとしての活躍、そして12年、13年と、2シーズン連続でゴールデングラブ賞を受賞した守備力は、まだチームとしては成績の伴わなかった時代の、ファンの誇りであった。
しかし、そんな荒波選手も、怪我にも悩まされた結果、輝いた期間は決して長くなかった。いや、そもそも、大学・社会人を経ての入団だったため、1年目の初出場時、既に25歳であったことも大きいだろう。
さて、そんな荒波選手と度会選手には、「横浜高校出身」という共通点があるものの、入団時の年齢には大きな違いがある。度会選手は「高卒→社会人」ルートであるため、プロ初年度の今年は、大学4年生と同じ年齢という若さである。
開幕以降、スタメンを続ける度会選手。壁にぶち当たっているとも言えるが、一方で、早くも球団歴代のどの新人も成し遂げなかったような記録も残し始めている。オールドファンの勝手な願望ではあるが、この「背番号4」の新人選手には、お父さんからのバトンというだけではなく、この番号を球団の「勝利の」レガシーにするような活躍も、期待せずにはいられないのである。